藤田嗣治満州より帰る
1940年10月昭和十四年ノモンハンの草原に展開された近代科学戦を描く為陸軍省嘱託として渡満中であつた藤田嗣治は十月十三日帰国した。
昭和十四年ノモンハンの草原に展開された近代科学戦を描く為陸軍省嘱託として渡満中であつた藤田嗣治は十月十三日帰国した。
故松岡映丘筆「明治神宮舞楽之図」の所有者東京日々新聞社は、紀元二千六百年記念及明治神宮鎮座二十周年記念として同図を明治神宮へ奉納することとなり、十月二十四日奉納奉告式を執行した。
元帝室技芸員故今尾景年の十七回忌が十月五日京都東山の南禅寺法堂に於て行はれた。
明治天皇御尊像展観 洋風画家高木背水は 明治天皇御尊像を謹写し別格官幣社佐嘉神社へ奉納することとなつたが、これに先立ち皇紀二千六百年奉祝の意を以て十月八日より同十七日まで上野公園内桜亭に於て展観した。
満洲国新京特別市は十月一日附を以て新京美術院の開設を決定した。院長には川端竜子が就任した。同院には院長一名、主事一名、研究員(講師)若干名等を置き、其の第一期計画として将来満洲国美術界の中堅たるべき研究生の指導養成事業に重点を置くこととなり、東京に同院東京分室を新営し、選抜されたる第一年度研究生十四名を次年度より留学せしむることとなつた。
京都市立絵画専門学校及美術工芸学校に於ては、十月二日その創立建議者の一人たる幸野楳嶺の胸像除幕式を絵専校校庭に於て行つた。これはその門弟たる竹内栖鳳、川合玉堂、清水六兵衛其他門弟に依り組織された凌雪会及び同校関係者により計画され、同校出身の彫刻家建畠大夢に依つて製作されたものである。
日本人形芸術作家聯盟は、伝統的人形美術の保存並に建設を旨とし、且つ相互間の親和を計り以て新体制に即する文化の為に貢献するを目的として鹿児島寿蔵寺に依り改組結成された。
パステル画の研究及普及を図り、我国文化の向上発展に寄与する為に創立された。
京都市立絵画専門学校及美術工芸学校に於ては其の創立六十年を記念し、十月一日其の記念式を挙げた。
京都府在住の彫塑家に依り自粛向上発展を図る目的を以て京都彫塑家聯盟が結成された。
西山翠嶂門の京都在住日本画家今尾景春等七名に依り、新しき世界観に立脚し日本芸術の世界史的使命を目標とし、九月世紀美術創作協会が結成された。
福島県出身者で組織してゐる福陽美術会では九月二十四日同会代表として勝田蕉琴、角田盤谷が会員の作品二十二点を陸軍省恤兵部へ献納した。
商業美術家協会片柳忠男を中心とし図案家協会、広告聯盟、広告クラブ等を聯合し、九月二十四日新東亜産業美術家聯盟が結成された。
ハンガリー文部省の依頼に依り国際文化振興会に於ては同国首府ブタペスト初め各地で催される日本小学教育展覧会に出陳する小学生の作品の蒐集を終り、九月十九日同会講堂に於て展示会を開いた。
陸軍省嘱託として北支方面に従軍することとなつた洋画家宮本三郎は、九月十五日発渡支した。
ブラジル国リオ・デ・ジヤネイロに於て九月二十三日日伯文化条約が締結された。その内容は曩に締結された日伊文化協定とほゞ同様である。
陸軍省嘱託としてノモンハンの戦闘を主題とする作品を描くこととなつた藤田嗣治は、九月十一日東京駅出発新京に向つた。
美術研究所長矢代幸雄は、同研究所員正木篤三助手豊岡益人と共に支那に於ける文化美術及工芸視察の為、九月十二日出発し、北、中、南支を歴遊調査を遂げ、十一月十三日帰国した。
鱸利彦を理事長、武藤夜舟、中井宗太郎を顧問とし、新体制の文化的一翼たらんとする主旨により新日本美術聯盟が創立され、八月三十一日軍人会館に於て発会式を挙げた。
福岡県出身並に県在住の美術家等を以て福岡県美術協会が組織された。毎年福岡市に於て日本画、洋画、彫塑、工芸に亘る展覧会を開催する予定である。